2010年7月13日火曜日

背徳のワインの楽しみ方とは

 ワインにはヴィンテージという、他の酒にはない記号が存在する。葡萄の収穫年を記し、ワイン好きにはその年の出来不出来が一目で分かり、それにより同じワインでもヴィンテージにより価格が大きく異なる場合がある。一般的なヴィンテージの捉え方は、概ねこのようなものだろう。しかし私は、別のアプローチでヴィンテージを愉しむことにしている。

赤ワイン、特にタンニンが豊富で長熟に耐えられる力強さを持ったワインは、私にとっては一種のタイムマシーンである。その年に収穫された葡萄でつくられたワインがセラーで深く眠り、生き耐えながら、例えば50年経った現在に偶然の縁で私の前に鎮座する。

今このボトルの中には50年前の液体が封印されているのかと思うと、ワインという飲み物がただの嗜好品を超越した存在として感じてしまう。このコルクを開けた瞬間に 、50年という歳月が目の前に展開されてくるのだ。
時間や空間を考える学問が哲学だとしたら、このようなワインの思考はまさに哲学に他ならないであろう。

私はいつしかオールドヴィンテージのワインを愉しむようになって、背徳の気分を味わうようになった。その年に生産されたワインには限りがあるのだから、年々消費されて残されているワインの数量は減少していく。ある程度の量がリリースされたワインも、50年、80年経てば、世の中に残された数量も僅かなものになってしまうだろう。

50年、80年経ったワインに少しでも歴史を感じてしまったら、これを飲んでしまって良いのだろうかと、一瞬躊躇してしまう。飲んでしまって、この歴史という時間を無にしてしまっていいのだろうか、そういう背徳を感じてしまうのだ。

一方、オールドヴィンテージのワインに対峙して、私は私の時間軸を考える。生きている、限りのある時間の中で、さらにワインに接することのできる短い時間をイメージする。それであれば、できるだけ自分にとって価値のあるワインの愉しみ方をしたほうが悔いが残らないであろう、そのように私の思考は帰結する。

このロジックに導かれ、私はオールドヴィンテージのワインを求めるようになった。100年前のワインを開ける背徳感、これはもう、エクスタシーに通じてしまう。人間が生きられない100年という時間を、ワインはボトルの中で生き続けている。コルクを慎重に開け、100年前の液体をグラスに注いだときには、遥かなる時間の宇宙が五感に広がる。

かつてパリの3つ星レストラン、「ギーサボア」に足を運んだことがある。日本人のグルメにも人気のあるこのレストランのワインリストは、とても重厚で厚かった。そこでは多くのワインに混じり、なんと1916年のポマールがオンリストされているのを私は見つけた。ギーサボアの中でも、最もオールドヴィンテージのワインである。

私はソムリエに、こんな古いワインが飲める状態なのか、ましてや料理に合わせられるポテンシャルを持っているのかどうかを聞いた。ソムリエはテイスティングをしたことないから、分からないと言う。ボトルをセラーから持ってきてもらい、その表情を暫く眺めた私は、状態が悪くても買い取るから開けて欲しいとリクエストをしてしまった。

ソムリエが慎重にコルクを抜栓して、テイスティングをしてから私に言った言葉は今でも忘れられない。フランス人の彼が英語で一言、「パーフェクト」と力強く言ったのだ。
100年経っていても果実味がしっかりと残り、余韻がふくよかで、レンガ色の液体から訴えてくるアロマが素晴らしかった。
その後は背徳を飛び越えて、人生の至福の時間を過ごす。厨房で腕を振るっているサボア氏本人に客席に来てもらい、1916年のポマールを一緒に味わった。そのことは昨日のように今でも思い出される。

1916年といえば、大正5年で第1次世界大戦の最中である。その後の様々な時代の変革をくぐり抜けてきた、たかだか1本のワイン。たかだか1本のワインであるが、そのワインに隠された歴史や時間の宇宙を想像し味わうことが、私の背徳でありエクスタシーであるのだ。このワインの愉しみ方を知ってしまうと、新しい世界が広がっていく。
そうは言っても、いつものデイリーワインをおいしく飲んでいるのは、紛れもなく私がソムリエの顔も持っているからなのである。





 

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