2010年11月27日土曜日

風の匂いを感じた、色彩豊かなファン・ゴッホ展

 ファン・ゴッホを見に、国立新美術館へ行った。夕方、外が暗くなってから訪れる。ホワイエに面した展示室の光壁が、幻想的に柔らかく灯っていた。

黒川紀章の最期の代表作になってしまった国立新美術館は、夜の帳が下りてから訪れると一層楽しめるだろう。外光が燦燦と降り注ぐ日中も、天井の高いボリュームのあるホワイエにそびえ立つ、レストランとなっている逆円錐形の異様が際立っている。

しかし夜はそれが妖しくライトアップされ、展示室の光壁が私に恍惚を誘った。そのフラッシュバックの中で、初めて黒川紀章と遭遇した時のことが頭を過ぎる。

それは学生時代に仲間と訪れた、黒川紀章の事務所のエントランス前での出来事であった。「KISHO N KUROKAWA」とクレジットされたオフィスの壁面に、「このNはなんだろう、紀章の訓読みの頭文字だろうか。」と言いながら立っていると、左の部屋から右の部屋へと本人がエントランスの前を通り抜けて行ったのだ。

その一瞬に、黒川紀章は私たちを鋭いあの眼光で睨んだ。私は怯みながらも、口の上に細い髭を生やしているのを見逃さなかった。後から先にも、黒川紀章が髭を蓄えているのを見たのは、この時だけである。

その後、ソウルオリンピックの選手村のコンペを手伝うようにと、縁があり呼ばれる。夜、外出から戻り、黒いコートと皮手袋をしたままでスタッフの進捗状況を見回るその姿は、ダンディそのものであった。

このファン・ゴッホ展には、オランダのファン・ゴッホ美術館からも多くの作品が来ている。そのオランダのファン・ゴッホ美術館も、黒川紀章の作品だ。もし黒川紀章が生きていたら、この因縁をどのような想いで感じたのだろうか。

哀しいかな、ファン・ゴッホの日本でのイメージは、新宿の超高層ビルの一室の一枚の絵と、ゴーギャンの目の前で自分の耳を切り落とし、最期は麦畑で腹をピストルで撃って自殺した姿だ。そして、生前は絵が一枚しか売れなかった悲劇の人生が付加えられる。

そういうイメージをファン・ゴッホに重ね合わせている全ての日本人は、この展覧会を訪れてほしい。前半の暗い色調の絵から、次第に美しい色彩が溢れる、輝く作品が続く。

私たちが抱いている「悲劇の運命の天才」の姿は、ここでは微塵も感じられなかった。

私は、『花瓶のヤグルマギクとケシ』という作品に注目した。背景の明るいブルーに、白いヤグルマギクと赤いケシが、見事に際立っている。ファン・ゴッホが弟のテオに宛てた手紙の中では、「これほどの色彩の管弦楽法に出会うためには、ドラクロワにまで一気に向かう必要がある」と記されている。(1)


この時期に、ファン・ゴッホは新しい色彩と技法を習得し、独自の静物画を描くためにきわめて個性的なやり方でそれを実践した。(2)

そして私が最も注目したのが、『ヒバリの飛び立つ麦畑』という作品だった。この絵からは「風の動き」が感じられる。そして「風の匂い」までもが沸き立ってくるのだ。

麦が風に揺られ、その少し「くぐもった」青い香りが風に運ばれてきて、画面の前の私に匂い立ってくるではないか。更に無数の麦の穂が風に揺られ、その音がシンフォニーの中の一瞬、軽いドラムの連打のように音を立てて私の耳に確かに聴こえて来る。

ファン・ゴッホは、麦にターコイズ、刈り取られた畑にはピンクを塗った。まだ濡れている下の層に、上から絵具を加えて構図を整えている。明るい色の地面は、下に塗られた薄い絵具層を通して輝いている。(3)

このブログでは、前回「アルチュール・ランボオ」を取り上げたが、そこにジャン・コクトーの文章を引用した。敢えてここでも、再び引用したい。


 これまでたびたびくり返してきたが、われわれの惑星よりも進化したある惑星が創造されれば、恐らくそれはアインシュタインを嘲笑することになるかもしれない。しかし、ヴァン・ゴッホやセザンヌを嘲笑することはなかろう。(4)



 ファン・ゴッホは1890年、37歳で死んだ。アルチュール・ランボオは1891年37歳で死ぬ。同時代、偶然にも同じ年齢で狂いながら死んでいった二人の天才芸術家がいた。

私は、決してファン・ゴッホが哀しい人生を送ったとは考えていない。画家として無名のままで逝ってしまったファン・ゴッホだったが、牧師の家に生まれ、後に画商となった弟・テオに勧められ画家になることを決心する。ロートレックやゴーギャンと邂逅し、画家としての自分の道をしっかりと進んでいった。

対象とする花を買う金にも困り、夏は静物画ではなく風景画を描かざるおえないほど困窮していたが、いつも弟・テオが生活費の面倒を見てくれていた。そこには、芸術家の濃密な人生に満足している自分があったのではないだろうか。そうでなければ、2000枚もの作品を残せる訳がない。

しかし、ファン・ゴッホは自分にストイックになりすぎて、作品のために人生を賭けすぎてしまい、理性を壊してしまった。

ある意味ファン・ゴッホの作品は、精神的な面から考えると弟・テオとの共同作業のようなものなのかもしれない。その弟・テオは、ファン・ゴッホが麦畑で自殺したわずか3ヵ月後に入院する。その年の初めにテオと妻ヨーとの間に息子が生まれたばかりだというのに。

そして兄、ファン・ゴッホが自殺してから半年後、自らも病院で死んでいった。あまりにも哀しいのは、弟・テオの方ではないか。

芸術家には、眩しいくらいの輝きと、それに反転する暗い影が付き纏う。それが天才を極めれば極めるほど、眩しさが突き抜ければ突き抜けるほど、影は暗闇に近づいてしまう。

『ヒバリの飛び立つ麦畑』は、いつまでも風の匂いと音を私に届けていた。


1 『没後120年 ゴッホ展』図録 p.104
2 『前掲書』 p.104 
3 『前掲書』 p.112
4 『ユリイカ』 総特集 ランボオ 1971年4月臨時増刊号 
  p.9 「ランボオの爆薬」 ジャン・コクトー/中条忍訳 青土社


参考文献
『没後120年 ファン・ゴッホ展』図録 
『ユリイカ』 総特集 ランボオ 1971年4月臨時増刊号  青土社




  

2010年11月10日水曜日

たった4年間の詩人 アルチュール・ランボオの死に様

 今日11月10日は、稀有な詩人アルチュール・ランボオがマルセイユで右足を切断された後に死んでいった日である。野垂れ死にである。1891年11月10日、37歳だった。

1873年7月10日。ランボオは恋人の男色家詩人・ヴェルレーヌに、恋愛沙汰の末に拳銃で右手首を撃たれる。ランボオ、僅か19歳の夏の出来事である。

1874年3月、ランボオ20歳の時に『イリュミナシオン』執筆。それ以降実質的に詩を放棄し、灼熱のアフリカに渡り武器商人となり金銭に翻弄される。

私はランボオを追った無数の文献から1冊を手にする時に、そこにランボーと表記されているより、ランボオと刻まれているほうが好きだ。

ランボオは、僅か4年間の詩人だった。その4年の短い間に、数え切れない幾多の研究者を追従させてしまうほどの、世界を震撼させる狂気の詩を生み出した。「その短い4年の間に」ではなく、「その短い4年の間だけ」と記述するほうが正確かもしれない。

狂気を孕む芸術を生み出すには、どれだけ自分が狂気に近づかなければならないのだろうか。それともランボオやニーチェのように、自分自身が狂気の世界に入ってしまわなければ狂気を生み出すことはできないのだろうか。

ランボオの生き様を見ると、「天才」は自由奔放に生き多くの人間に迷惑をかけても許される人種のような気がする。常に周囲に迷惑をかけながら、放浪への脱出をいつも試みて、母親から逃れようとしていた。いや、母親からの逃避だけではないだろう。

ランボオが生まれ育った北フランスのシャルルビル。パリからシャルルビルへ向かう途中に、ランスがある。シャンパーニュで有名なランスは、寒さゆえに葡萄の熟成が悪く、自家消費用の白ワインも品質が悪かった時代があった。消費されずにいるワインを放っておいたら自然に二次発酵をおこしてしまい、現在のシャンパンの原形が出来たという逸話もあるほど、気候には恵まれていない。

そこから更に北上しなければ、ランボオが生まれ育ち、何度も故郷を捨てようとしたシャルルビルには到達しない。ランボオは母親から逃避しようとし、そして寒々とした故郷を捨て、最後には灼熱のアフリカを目指してしまった。

天才の母親というのは、何て哀れなのだろうか。太宰治がそうであるように、ランボオは放浪し資金が底を突くと、親に金を無心する。母親は諌めながらも、ランボオに融通する。何度も故郷に召還されながらも、その都度母親から逃げようとしたランボオ。

 その母親は、息子が好き勝手生きた代償として腫瘍のために右足を切断するという電報を受け取ったとき、どのような気持ちになっていただろうか。

 私は『ユリイカ』1971年4月臨時増刊号「総特集 ランボオ」を参照しながら、この文を書いている。その巻頭に、ジャン・コクトーの興味深い文章が掲載されていた。

   アルチュール・ランボーのように閉ざされた作品が、シャルル・ボードレール
   のようになかば開かれた作品やヴィクトル・ユゴーのように広く開かれた作品
   と同じ資格でこの国に君臨していることは、わが国の一つの名誉である。



 ランボオはボードレールを貪り読んでいたが、コクトーによるこの比較は素晴らしい。そしてコクトーでさえ、ランボオを「閉ざされた」と評しているのだ。

 更に、コクトーの美しい文章を引用したい。

 ランボーぐらい大きな名声がでると、かならず行き違いが生ずる、行き違いは芸術のあらゆる大冒険につきまとう。
お供の犠牲となった多くの人たちはやっきになってある種の外観を、ランボーのある種の傲慢を何時までも持ち続けようとする。この「通りすがりの男」が「重要」であったのは、構文の新しい使い方をしたためだということを彼らは考えもしない。(中略)
   これまでたびたびくり返してきたが、われわれの惑星よりも進化したある惑星が創造されれば、恐らくそれはアインシュタインを嘲笑することになるかもしれない。しかし、ヴァン・ゴッホやセザンヌを嘲笑することはなかろう。
   分析や科学の進歩ではつかめぬある力が支配するこの分野で、アルチュール・ランボーは一つの素晴らしい爆薬を、つまり、勇壮や武器に関する既存の考えに対立する一響の春雷を、一つの武器を、一つの勇壮を代表している。(後略)
            (「ランボーの爆薬」 ジャン・コクトー/中条忍訳 文中「」は筆者による) 



 ランボオを知らなくても、コクトーが好きでなくても、この珠玉のセンテンスを読めば心が揺さぶられるはずだ。巻末の山口佳巳が編纂した「アルチュール・ランボオ詳細年譜」の頁に、ジャコメッティ、コクトー、ピカソが描いたランボオ像が挿入されている。

 ジャコメッティは、ランボオを線の濃淡だけで描く。ピカソは、その若い時代そのものの素晴らしいデッサンで、写実的にランボオを浮かび上がらせた。そしてコクトーは、いつものように背景にギリシャ神話の美男子を組み込んだ。

 たった4年間の詩人がこれほどまでに世界を坩堝に巻き込んだのは、男と恋愛をして19歳の若さで拳銃で撃たれからだろうか。
 詩を放棄して灼熱のアフリカで武器商人となったからなのか。
 梅毒にかかり腫瘍を併発して右足を切断されても尚、南を目指し旅をしようとしたからなのか。
 その驚きの人生全てを生きたからだろうか。

       子供たちには酸い林檎の肉よりももっと甘い
          緑の水が、樫材のおれの身体にしみわたり、
          安酒のしみ、へどのあとを洗いおとし、
          舵も錨も、ちりじりに流し去った
                     (粟津則雄訳 『酔いどれ船』より)

参考文献
『ユリイカ』 総特集 ランボオ 1971年4月臨時増刊号  青土社